思いをのせるこころノートには、自殺についての思いが投稿されます。
ここに書かれているのは、普段心に秘めているそのままの言葉です。

ゆー

20代|その他

いつでも死ねるからもうちょっと頑張ってみよう 自殺という選択肢が自分にとっては生きる希望でもある

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yoshi

40代|男性

何もやっても駄目で目標も失いました。 生きるのに疲れました。 死を考えてます。

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明日

40代|女性

 医療とか福祉に付く人材には学校から医療・福祉の現場に直ぐではなく、社会人研修とかあればいいのにと思う。  客への対応や仕事を時間内で間に合わせなければならない経験であったり、そういった事がどのくらい大変なのかを経験してほしい。    件の酷い対応の障がい者施設職員が数年前に聴いた時点では、私が登録している施設を辞めた後まだ障がい者関係の仕事に就いているとのことだったのだが反吐が出る思いである。   殺されてりゃ良いのにと本気で思う。  恨み辛みを込められた酷い殺され方をして欲しい。長く苦しませて欲しい。  殺す方には悪いのだが本気でそう思う。  もしそれが本当に起こったのなら、私はきっと息の仕方の深さが変わると思う。  こんな思いを抱えて居たくないのだが、本気でそう思う。  

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30代|女性

幸です。33歳(女)です。 これまで必死に、懸命に自分なりに頑張って生きてきたつもりです。 しかし 生きることにとうとう意味が見いだせなくなりました。 そして、生きること自体に、とうとう疲弊してしまいました。 親は、「幸せになって欲しい」と私に言います。 最近、自分の幸せと何か考えてみて答えが見いだせた気がしました。 それは、この辛い現実、理不尽な世の中から離れることです。 つまり、死ぬこと。それが、今の私の幸せであると。 このまま同じループを繰り返し、この苦しい人生が永遠と続くのであれば、死ぬ方が幸せだと、強く感じています。 以下の文章は、私が経験した辛い人生の中のほんの一部です。こちらには到底書ききれないので、今少し思い出した分だけ綴ります。 読み返すと辛くなるので、書いた文章の再度読み直しはしていません。ですので、誤字脱字があったら申し訳ありません。 今思えば悲惨な人生でした。 幼少期から同居していた父方の祖母が母親をいじめ、それに対して何もできず祖母と協同する父。 家庭はいつもお葬式状態で、母親の笑顔は一切記憶にありません。 食事はいつも無言で、私と姉が祖母の部屋へ遊びに行くと、母はいつも機嫌を悪くしました。 4歳の時です。 そして、私が母ともめた時、私が自分の意見や考えを言うと、母はヒステリックに私にキレました。 毎晩、電話で私の悪口を叔母に話していたのを、幼いながらふすま越しに聴いていた私は、心臓が飛び出そうなほど緊張していて、冷汗が吹き出たのを覚えています。 私は、日常的に母の顔色を窺うようになり、私のせいで母は機嫌が悪いんだと酷く自分を責めるようになりました。 唯一母に褒められたこと言えば 「幸ちゃんは笑っている顔が素敵。笑顔が素敵。」 それから幼い私は考えました。 「そうだ!私がおもしろく、あかるく笑っていれば、みんなえがおになってくれるかも!」 あいにく家庭環境だけでなく、学校環境にも恵まれませんでした。 幼稚園では先生から心理的な虐待を受け、バスの中で頻繁に嘔吐をし、小学校1年生の時は学級崩壊、それから2年生の時はストレスが原因で歯痛になり、激痛で食事全般が食べられずやせ細り、歯痛を母に訴えては「気にしすぎだ」と怒られました。3年生でも評判の悪い教師に当たりましたが記憶がありません。父に関しては、食事の際私が楽しそうに学校の話をしても、張り付いたようにテレビに視線を送ったままで、私の顔を見て聴いてくれることはありませんでした。4年生ではとうとう暴力教師に当たり、自分が気に入らないことがあると椅子を蹴り飛ばして怒鳴り散らすようなことが日常茶飯事でした。その時、一緒のクラスで少しお調子者の男の子がいました。彼は少しお調子者でしたが、性格はとても気づかいができて、人を傷つけることは言わないですし、小学生なのにレディーファーストができる見た目も可愛らしい子でした。一緒に帰って私の家に遊びに来るくらい、私も彼と親しくしていました。しかし、彼はあいにくその担任に目をつけられていて、怒る必要もないほんの少しのことで、ひどく怒鳴られたり、その子が座っている椅子をけ飛ばされて転ばされたこともありました。これについては、私は家庭でも学校でも常に緊張とストレスを抱え、気の休まる時がほぼありませんでした。  その担任が起こした数ある暴力事件の中でも、一番記憶に残っているのは、演奏会の記憶です。体育館に全校生徒が集まり、バイオリンやチェロなど、プロの演奏家がそこで生演奏する行事があったのです。プロの方々の演奏はとても素晴らしく、幼いながらに感動したのを覚えています。私も母がピアノの教師だったため、幼いころからピアノを習っており、発表会の前はよく練習したものです。ですので、きっと、プロの方々もこの日のために練習を積んでくれたのだろうと感謝の気持ちさえ湧きました。  会場がとても良い雰囲気に包まれている中、最後の曲を演奏するいわゆるフィナーレの直前、会場が静まり返っている時の出来事でした。その担任に目をつけられている男の子と、隣に座っていたの女の子がほんの少しこそこそと話したみたいなのです。その時 「うるせえっつってんだろうが!!!!!!!!!」 と、会場中にその担任の怒鳴り散らす罵声が響きわたりました。全校生徒の視線は一瞬にして担任に向けられ、プロの演奏家の方々の手がピタッと止まったのを覚えています。 そして、その直後から私はドックン...ドックン...と、あまりにも心臓が飛び出るほ緊張していたため、その後のことはよく覚えていません。ですが、その担任の罵声により、会場の心地よい空気が一瞬にして凍り付き、場がどよめき、演奏家の方々の集中力、そして、彼らの動揺により、最後のフィナーレが確実に台無しになったことを覚えています。  これは後から知ったことですが、その時、前の方にいた私や周りの生徒も気が付かなかったくらいですから、注意するほどでもなかったことは確かです。今思えば、目をつけられている男の子が少し話したので、それが気に入らなかった担任の八つ当たりだったのかもしれません。  その後は、クラス全員、2列に整列して職員室の前まで行き、学級委員の男子が代表として職員室に入り、ふてくされて座っている担任の元へ行き、 「申し訳ありませんでした」 と頭を下げ、それに続いて列をなしているクラスメイト全員 「申し訳ありませんでした」 と頭を下げました。 その際、私は列の真ん中あたりにいましたが、一緒に頭を下げることも謝ることもしませんでした。 そして、クラスメイトの謝罪に対して、ふてくされていた担任は終始無言でした。 それから教室でどれくらい待ったでしょうか。静まり返る私たちの元に、担任が入ってきたのです。そして、教卓に立つやいなや、 「俺だってこんなことはしたくなかったわけ。」 と自嘲ぎみに話し始め、何か言い訳じみた事を話始め、そしてその後は私たちが悪い、というようなことをダラダラと話していたのを覚えていますが、あまりのバカバカしさに内容は忘れました。そんな小学校時代でした。 中学では小学校の時のような狂暴教師はありませんでしたが、自他クラス共に教師の質が悪く、今となってはかなり問題となる教師のモラハラが横暴していました。「豆腐の角に頭をぶつけて死ね!!」と生徒に言ったり、当時、小学校から同じ中学に上がった先ほどのお調子者の男の子が、授業中に腹痛を訴えた際「からかっているんだろ!」と担任からキレられて保健室に連れて行ってもらえず、我慢して授業を受けていましたが、結局盲腸だった、など。今となっては、そのお調子者の男の子は、本当に当時、一番の被害者だと思います。 結局その子はどうなったかというと、同総会に参加した友達が言うには、新宿でのホスト経験を経て、現在は大阪でホストの経営をしているとのことでした。 レディーファーストができて話し上手な彼にはぴったりの職業だと思いましたが、当時受けた傷を抱えていたら、と思うと、胸が締め付けられる思いでした。ちなみに、その暴力教師は今、地元で保育園の園長をしています。 また、中学3年時に所属していた部活の顧問が変わり、運悪く他校からかなり評判の悪い顧問に変わったのです。それからは地獄でした。私が目を付けられたのです。当時、私はわりと自分の意見をはっきり述べる性格でしたので、それが原因かと思います。顧問が変わってから、私たち3年のチームが仲間割れして対立し、その生徒の親も対立し、かなり険悪な雰囲気で引退したのを覚えています。最後の大会で、私は上げしい腹痛に見舞われ、練習の成果が出せませんでした。 そして、学校の相談を母にするたびに 「あなたが~だからよ」「ちゃんとそれ言い返した?」 と言われ、私の自責の念はさらに酷くなりました。また、学校で辛いことがあり、家で落ち込んでいると母の機嫌が悪くなりました。 「笑っていなさい!」 「今の自分の顔を鏡で見てみな?ひどい顔してるよ。」 と、鏡を私の顔に向け、自分の顔を見せられた時もありました。 そして、小学校6年生の時から始まった、頭皮を爪でひっかいて剥く行為が酷くなりました。30歳を過ぎた現在でも、毎日頭皮の皮を剥き、またそこのかさぶたを剥がすため、常にひりひりと痛みます。母親からはやめなさいと言われ余計ストレスになり、父は私がそのような行為をしていることさえ気が付いていません。また、父に関しては、物心ついた時から私のおしりを日常的に触ってくるようになりました。ふざけて触ってきたので、姉も母もそれを見て笑っていました。なので、私はそれはスキンシップの一環かと思い、父親として普通の行為だと思っていました。  しかし、中学1年の時、自分の胸が少しふくらんだり、大事なところに少し毛が生えたりしたのを感じ、父とお風呂に入るのをやめようかと思っていたところでした。この年齢までなぜ父とお風呂に入っていたかと言うと、私にとって父との唯一の時間が一緒にお風呂に入ること、それ以外で父と接触すことはほぼなかったのです。なので、小学校高学年から一緒に入るのが嫌だなと感じ、今日こそ言おう!と決意はするものの、結局言えず、我慢して一緒に入っていたのを覚えています。  ある日の入浴の時でした。一緒にお風呂に入った時、父が私の胸を見て 「おっぱいおおきくなったね」 とニヤニヤしながら言ったのです。その時、私は思考が停止して、頭が真っ白になりました。父親からそのような男目線の発言が出たことに対し、そのような目線で見られた自分が恥ずかしく、同時にとてもショックで、心臓がバクバクしていてもたってもいられなくなり、風呂を飛び出して母親に駆け寄り、飛び出そうな心臓を押し戻しながら、震えた声で風呂での出来事を伝えました。そうしたら、母は 「やだ~笑」 と笑っただけでした。こんなことで気にしている私が悪いの?そこからまた自責の念に襲われました。それからは父親とは一切お風呂に入っていません。 今思えば、胸をつつかれたり、股をつつかれたりしたこともありました。今、男性とお付き合いする上で、そのことが影響しないか不安を感じる時が多々あります。先日、そのことを母に話しても、 「気にしすぎ笑」 と笑われて終わりました。しかし、先日友達に話の流れでその件を話したら 「普通じゃないよ!私が幸の姉や母親だったら、父親にものすごい怒鳴ってるよ!もし、幸ちゃんが結婚して、その旦那さんが自分の子どもに同じことをしていたら嫌でしょ?私がもし旦那が子どもにそんなことしたら離婚するよ!!」 と、真剣に叱ってくれてようやく自分の家族が普通でないことに気が付いたのです。 高校に関しては、中学とあまり変わらず、担任にも恵まれず、同じパターンです。 ただ、この頃からさらに人間関係がうまくいかなくなりました。 人当たりがよく、コミュ二ケーションがうまく、いつも笑顔でいることを、よく思わない人が出てきたのです。そして、その生徒から嫌がらせを受けても、私は笑顔で笑っていました。 「キモ」 「幸って〇〇な顔してるよね」 それから、思春期と過度のストレスで酷い肌荒れになり、そのニキビだらけの顔をポストイットに描かれて笑いながら見せてきた生徒もいました。また、当時一緒にいた友達が片親で束縛が強く、私が他の友達と仲良く話しているのに激怒して、昼食時間に別室で部活の友達と食べるようになったのです。私はすでに出来上がっている他のグループの輪に入れてもらうのにも気が引けて、2月の真冬に2週間ほどトイレの便座に座って昼食をとりました。なぜ2週間で終わったかと言うと、2週間たった時、その友達が私を呼び出し、 「あなたが他の事仲良くするから私は他の子とお弁当食べてたんだよ!?わかる!?他の子と仲良くするのやめてくれない!?」 と散々叱られたのを覚えています。そして、その呼び出された場所が、私が一人で弁当を食べていたトイレだったのがむなしかったことを覚えています。そして、そんな彼女に対して私は「あはは!そうだよね。ごめんね。」と、笑顔で返し、学校帰りに泣きながら帰りました。この時、心はもうナイフでズタズタに刺された状態でした。しかし、どんなにイライラしても、どんなに悲しくても、それを表情に出すことに酷い罪悪感と抵抗感を感じていたため、笑顔でいなければ嫌われる、自分の暗い感情を表情に出したら誰にも受け入れてもらえない、自分の意見を言っても受け入れてもらえない、言ったら嫌われる。という強い思い込みが過剰にあったのです。 そして、トイレで食べていたことで痔になり、激痛で歩けず、家で千鳥歩きをしており、痛い、痛い、病院に連れて行って欲しいと母に何度も伝えたら、それがしつこく感じたのか、 「だから大丈夫だって言ってんじゃん!病院なんか行かなくていい!ワセリン塗っときゃ治る!」 と酷く叱られました。 それから短期大学に入り、好きなことを勉強させてもらったことは親に感謝しています。好きなことですから、そこで勉強に夢中になり、気が付いたら学業成績最優秀賞を受賞し、次席で卒業しました。ただ、これまでの人生で自己肯定感が皆無で育ち、 その後は4年生へ編入させてもらいました。 しかし、就職活動で決まった会社に参加した入社前の懇親会で不信感を覚え、いわゆるブラック企業であると感じ、丁重に辞退の旨を伝えたところ、人事の方から酷く叱られ、ショックを受けてしまいました。選考時は穏やかで「ぜひ幸さんに来ていただきたい。きっとあなたは活躍してくれると信じています」と手書きのメッセージさえくれた人事の方でしたので、そのあまりにも変貌した様子に衝撃を受け、固まってしまったのを覚えています。その時、私の人生、もうこんなことが繰り返されるなら生きている意味はない。心の中でもう死のうと半ば決意していました。そして、自分の意見を言うことが許されないという先入観を親から植え付けられていた私は、そんな感情の中「はい!大変申し訳ありません!御社で頑張っていこうと思います!今後ともよろしくお願いいたします!」と白い歯を見せて笑顔で言い切ったのです。 帰りの電車で泣き、実家に帰り、それから寝たきりになりました。なんとか入社の書類をボールペンで書くのですが、これまではこんなことが無かったのに、なぜか4か所以書き損じをして、そのたびに車線を引いて印鑑を押す、という作業が繰り返されました。それを見た父親から怒られました。出来上がった入社手続き書類は、書き損じだらけで大変汚くなってしまったのを覚えています。今思えば、この時からかなり深刻なうつ状態であったと思います。 それからは無理やり自動車教習所へ通い、なんとか免許を取得しました。今思えば、あの時、ひどいうつ状態でありながらよくとれたなと思います。両親は呆れ、心配もしてくれましたが、私の症状がだんだん酷くなるのを見て、隣町の古い心療内科へ連れて行きました。そこでは副作用も説明されず、処方された薬が体に合いませんでした。この時、「休んでもいいんじゃないでしょうか」という医者の一言で会社を辞退しようと決意しました。そして、大変情けない話なのですが、退職の旨は父に電話で会社に伝えてもらいました。 異常な食欲とだるさ、眠気、頭の麻痺に襲われ、そこから7年間ほぼ1日中寝たきりの状態が続きました。歯磨きをするときは手がうまく動かず、よだれが口の端から垂れ、歩くことも辛く、立っていることも辛かったです。靴下も母親に履かせてもらう時もありました。 日々私が動けない様子を見る母親がドライブや散歩に私を連れていくのですが、私が起き上がれず、いつまでも私宅が出来ないことと、連れて行ってもふらふらして長距離が歩けず、帰りたがる私に対してだんだんイライラすることが増え、私に対して態度が悪くなり、当たりが強くなりました。 そして、私は退職当時から続いていた悪夢がさらに酷くなり、夜中に頻繁に飛び起きるようになり、軽い発作のようなものを起こすようになりました。 それから異常な食欲がわき、親の目を盗んでは近所のバイキングに毎日のように通い、体重が20キロ増加しました。あっというまの期間でした。 ある日、久々にのっそりと起きて鏡に映った自分の身体をよく見ると、あまりにも醜い姿に驚愕しました。腕や足、顔までがパンパンに太っていて、かなりの肥満体型になっていたのです。 それにショックを受けて、今度は身体醜形恐怖を発症しました。それからは毎日マスクをして外出し、学生時代あんなに大好きだったオシャレやメイク、エクササイズも一切しなくなり、外出や人の視線に恐怖を感じるようになりました。 そして、この時就労施設に無理やり通っていたものの、症状は進行していきました。 ある日、母親が散歩に行こうと私を誘いましたが、私は「うん。待ってて。」と伝えましたが、それから1時間程だるさで動けず、支度をした母を待たせてしまいました。すると、とうとう母の堪忍袋が切れたのか、 「いっつも寝てばっかじゃない!!!あのさ!普通の人間は朝ちゃんと起きて昼間活動して夜疲れて寝るの!!!!」 と私を怒鳴りました。私はそれでも起き上がることが出来ず、5分後くらいにようやく身体を起こして怒っている母の元へ行き 「ごめん…散歩、連れて行って。行こう」 と声を掛けましたが、 「もういい」 返答はありませんでした。そして、私はその日の夜、家の2階の屋根に上り、しばらく星空を眺めていました。そして、家の屋根から地面を見下ろしてみました。 そして、ふらふらとその屋根から降りて、100円ショップで購入したロープと 手袋をはめて、ロープを首にかけて少し締めてみました。そして、徐々に力を強めていったのです。しかし、のどが苦しくなった手前で緩めました。それから何回かその動作を繰り返し、ロープと手袋を外してタンスにしまいました。その時の感情は、「無」でした。 病院へ行って副作用を訴えても、飲んだ方が良いからと変えてもらえませんでした。15年書道を習い、教科書のように書けていた字も書けなくなり、薬を辞めたいと手が利かず歪んで小さくなった字を先生に見せても 「問題なくしっかりかけているじゃないか!」 と言われただけでした。 それから親から離れるために、身体が利かない中、無理やり東京に住んでいくつかアルバイトをしてみたものの、立っているのさえ困難で続きませんでした。 今でも覚えているのが、デパ地下のケーキ屋で働いていた時、ケーキの試食販売をしていたのですが、ふらふらで長時間立っていられず、個室トイレで試食を全て自分でたいらげ、販売元へ戻った記憶があります。なぜ試食の販売のみをやらせていたかと言うと、自分が病気と言うことを隠して採用されたのち、給与面での申請で そのことを店長に言わざるを得なくなり、それを伝えたところ、男性店長から 「病気なんて知らなかった!!!」 と叱られ、それから最初は「クリスマス期間は絶対入って」と言っていた店長が、「クリスマス期間は来なくていいよ」「この日と、この日も来なくていい」 と、私を使ってくれなくなりました。接客もさせてもらえなくなり、在庫管理と 試食販売のみに回されました。おそらく、向こうも私の辞職を望んでいたのだと思います。それを察したので、私はすぐに辞職しました。 東京にいても、仕事が続かない…このまま東京にいても意味がない、貯金が底を尽きるだけだと思い、情けないですが、もう一度実家に帰りました。 そこで新しくできた地元の精神科へ行ったら、担当の若い医師から 「結構危険なの飲んでるよ」 と言われ、それから飲んでいた薬をほぼすべてやめることに成功しました。 断薬終了までの期間はあまりにも短く、今までの苦しみは何だったんだと思うほどでした。 ここまでで7年の歳月が経過していました。気づけば、周りの友達は結婚、出産を迎え、新しい家庭を築いていました。私は、男性とお付き合いした経験さえありません。7年間を、ほぼ寝たきりで過ごし、何も前進せず後れをとっている自分に、苛立ちさえ覚えました。 それからは以前の元気な自分を取りもどし、これまでできなかったいろいろな趣味に挑戦し、仕事を探して働き始めました。大金持ちの邸宅の家政婦として勤めましたが、一日8~10時間労働は当たり前で、休憩が無い時もありました。奥様はいわゆる典型的なお嬢様で、とてもわがままな方でしたが、私のことを自分の子どものよう、幸さんは家族よ!といつも言っていただき、とても可愛がってくれました。私自身も、本当の親子のような関係であると感じ、自分の居場所はここだ!と嬉しい気持ちでいました。 ご主人が職場から近い方が良いと、自分が持つアパートの1室に無料で間借りさせてくれました。築50年の穴あきだらけの木造でしたが、愛着さえ湧きました。光熱費は幸さんの給料から引くねと言われたので、お願いしますと伝えました。しかし、給料から光熱費が引かれていなかったので、ご主人に確認を取ったら「いいよいいよ、払ってもらう月もあると思うけど」と返答され、厚意としてありがたく甘えさせていただいていました。 しかし、その厚意とは裏腹に、業務が次々と増えていき、アルバイトの範疇を超えるくらい膨大になっていったのです。休日も奥様から電話がかかってきて、自宅に仕事を持ち帰ったり、常に社長の相手との取引を確認するなど、正社員並みの業務をこなしていました。 おそらく原因は、私がいつも通り笑顔で引き受けるため、この人なら何を頼んでもイエスというだろうと思われるようになったのです。 最初は自分の子どものように感じていた奥様も、自分の業務の伝え忘れを私の責任にした際や、私をからかった際に私が笑顔で対応することに味を占め始め、次第にその行為はエスカレートしていくようになりました。そして、最終的には 「ねえ、今日のミス、普通考えればわかることよね?笑 これまでの経験全然活かせてないんじゃない?頭大丈夫?薬飲んでたからじゃない?笑」 と言われるようになり、まだやったこともない業務や言われていない業務に関して 「幸なら言わなくても分かるよね???言わなくても分かると思ってた!頼むわよ!”信頼”してるんだからさ~!」 と言われることが日常になり、他にも奥様の私に対しての態度や言動がエスカレートしていきました。私は多岐に及ぶ業務、長時間の労働、モラハラにだんだんストレスを感じるようになりました。しかし、幼いころから我慢癖が根付いてしまっており、そのストレス耐性がおかしくなっており、それが限界を迎えていることさえ気が付きませんでした。そして、仕事を始めて1年が経過し、ストレスがキャパシティを越えたことにようやく気が付いた矢先、奥様から電話がかかってきました。 「幸、今日経理の人が確認したら、光熱費があなたの給料じゃなくて主人の所から引かれてるんだけど。これまでの1年分の光熱費、8万円超えてるから、一括で払うか、今後分割で払って。それプラス今後の光熱費も一緒にね。どうする?月5000円からでいい?」 と電話が来ました。私もここまでなめられたか‥と、あまりの理不尽さに卒倒しそうになりましたが、私はご主人との会話を確かに覚えていたので、彼に電話を掛けて冷静に経緯をお聞きしました。その時の会話は今でも忘れません。 「あのさ、幸さんさぁ、俺の所の社員はみんな家賃は半額社員が払ってるわけ。ね?でさ、なんか知らなけど、幸さんの光熱費が俺のところから引かれててさ(笑)俺も自分の口座の確認とかいちいちしてないからわからないの。でね?今日初めて幸さんの給与明細見たんだけどさ、幸さん、月8万くらいしか稼いでないじゃん?俺らからすればさ、とてもそれで生活できるとは思えないわけ。な?だからさ、月14~5万は稼ぐくらいのつもりで働いてくんないとさァ。」 そして、社員はこんなに働いてるんだという話をされました。こちらの会社では、基本、正社員はアルバイトより偉いという考え方なのか、社員の方が昼食休憩を別室でしっかり30分取り、アルバイトは休憩なしという体制でした。ですので、仕事において”所詮アルバイト”という考えは一切許されないのです。この時、私は平均して週に4日、1日9~10時間の勤務でした。 そして、ご主人の真意を聞くために、私は光熱費についてご主人と会話をしたことを覚えている件を失礼のないよう伝えました。すると、 「じゃあいいよ!もう払わなくていい。こっちが払うから。俺そういう経緯とかよくわかんねぇからさ。こっちとしてはもっと働いてもらわなきゃ困るわけ。だって月8万で生活してけると思えねぇもん。もう幸さんと俺らとじゃ価値観が違うわ。だからもう出てって。ね?もういい大人なんだからさ。これからは別のところで自分でやりくりしてって。」 と言われ、その後、再び社員はこんなに働いているんだという話を聞かされました。そして、私はそれに反論せず、はい、はい、と聞いていました。そして、「分かりました!ありがとうございます!」と元気よく笑顔で答え、電話を切りました。 そして、あんなに自分の子供のようにかわいがってくれた奥様から私のメッセージアプリに一枚だけ写真のみが送られてきました。 8万4千円。請求書の明細を写メした写真でした。 もう死んでしまいたい。私はその場で泣き崩れました。 そして、アパートを引き払った今、一時的に実家にいて転職活動をしていますが、正直、もう終活をしたいです。 父親からは 「毎回どこへ行ってもうまくいかないじゃないか!!!!あんたに原因があるからだ!!!あんたが悪いんだ!!」 と怒鳴られる始末です。以前、一度母のことを毒親と言ってしまい、母がショックで突発性難聴になったのです。父はそのことで私を恨んでおり、そのことも散々責められました。薬で治ったものの、母をそのようにしてしまった手前、実家に帰るのは当然許されることではないと自覚しています。ですので、この歳で仕事も続かないなんて、恥ずかしくて生きていけません。この歳で恋人もいない。もう、生きるのを辞めようかなと思います。疲れました。 そして、社員の子から連絡が来て、一言。 「奥様が幸さんが電話に出ない。どうしちゃったのかしら?と不思議がっています。」 所詮、これまでの人生も、学校でもどこの職場へ行っても、最初は「いい人」と言われるものの、最終的に「都合のいい人」としていいように利用されて、人々の都合の良いサンドバッグになる。それが今回の件で明確になりました。 私が笑顔でい続けること、都合の良い人間を辞めない限りはこのループはどこへ行っても、何をしても永遠と続くでしょう。 私は毒親のせいで30年間、そして今でもこんなに地獄のような苦しみを味わっているのに、親は自分は間違っていない、あなたに原因があると言い張って楽しく人生生きています。それが憎くて憎くて仕方ないです。私が味わったこの30年間分、残りの人生、刑務所で罪を償って欲しい気持ちです。なぜ、私が苦しまなければならないのか。なぜ私がここまで責任を問われないといけないのか。真面目に一生懸命生きているだけなのに。 もう限界です。 現在、自身で心理学を学びながら、自己を改善するために、心理師の元で自身の気持ちを伝える練習、心理学的な認知行動療法や腕のあるカウンセラーの元でのカウンセリング、本当に様々なプログラムを貯金をはたいて受けました。 手は尽くしました。 しかし、30年間で根付いてしまったこの性格は、もう変えられませんでした。 なので、このまま私が生きていることで周りに迷惑をかけ、自分の性格が原因で今後の人生も同じループが続くのであれば、もう生きていることさえ無駄な気がします。 世の中のしくみ理不尽さ。真面目に生きているやさしいにんげんが淘汰されて、ずる賢く人をいたぶる人間が頂点に立つ。 もしそうなのであれば、私はこの世の中から自ら身を引いた方が良いと感じています。 生まれてきたことが間違いだったのです。 自分を責めない人生、自分を受け入れてあげる人生、自分を好きになって楽しく 生きてみたかったなと思います。 長文を読んでいただきありがとうございました。

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明日

40代|女性

 今日もまた思い出されてくる。今後の生活の変化の為に部屋を片そうと思った時に。  障がい者施設に行って怒鳴られても具合悪い中頑張ってなんとか仕事に就くために訓練していた。  相談部門、作業所部門の担当両方から今の症状、生活状況等のキチンとした聴き取りはされてもいないのに関わらず、早く仕事に就け。早く仕事に就けと追い立てられていた。  こちらだとて何回も仕事を解雇され自殺未遂し、これからどうすればと何年も不安に駆られてきたのだから、早く仕事に就きたいが、仕事を継続していく力を付けなければまた解雇である。  解雇になったら戻ってくれば良いじゃないか等と言われたがB型の作業所の工賃でどうやって暮らせというのか。引き続き自殺に追い込んだ家族と暮らしながらビクビク顔色伺って、経済的自立ができないからそこにいるしかない地獄のような暮らしをしろというのか。  その相談を最初の予約を取った相談時間でしようとしたら初っ端に怒鳴られたのである。  そしてその相談員はそれまでの症状などで部屋がゴミ部屋状態だったので、これから仕事に就く生活になるためにも片したい、片付ける時間が欲しいと言ったら、「そんなのあとにしてまずは仕事を」等と言ってきたのである。  ちゃんと寝れもしない、洗濯した服もちゃんとシワなく収納できない、押し入れに理由のわからないモノばかりで布団もしまえ無い。そんな状況でどうやって就職活動をしていけというのか。  完全におかしい。おかしかった。  こっちはそういう人間ととっとと離れたいからものすごい勢いで頑張るしかなかったのである。それが端からみたら元気でしょ、やれるでしょと決めつけられ、早く仕事就かないと40、50、に直ぐなっちゃうんだよ。と自分でも分かりきってることを言われて、ちゃんと相談できる人間も居なくて 生活も出来なければ安全も確保できない状況に陥ったのである。    そんな人間がもしからしたらまだ生きてるかもしれなくて、障がい者支援関係の仕事に付いてるかもしれなくて、税金から出てる金をほぼ給料泥棒してるかもしれないのである。  もしかしたらその働きぶりをボコボコに抗議されて何処かに雲隠れしてるかもしれないが二度と人間の世界に戻って来てほしくないものである。二度と生まれてきて欲しくない生き物である。  施設を卒業する時に「ここのことテレビとかで言ってるかもしれませんね」と作業所部門の担当に吐き捨てておいたのが効いたのか、件の相談員が「待ってますから」とかぬかしていたのが一年足らずで辞めていたのは身に覚えがあるからなのではないかと思っている。  二度と障がい者や困っている人間に近寄らないで欲しいものである。  人間性に問題のある人間を弱い立場・状況の人間に関わらせない決まり事がちゃんと浸透し整っていくと良いと思っている。  本当にあのクソ職員はとっとと死んどけ。

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明日

40代|女性

 自分の状況を健康な生活状況にしようとしているのだが、困難に直面している。  すごく疲れる。いつ一区切りしてくれるんだろう。  手助けしてくる筈の機関に、より窮地に追い込まれている様な処もある様に思って参っている。  なんとかはなるんだろうけど、不確定な状況が多すぎる。疲れる。  こんな状況に追い込まれるきっかけになった昔の事に思い出し怒りを感じて疲れる。  ストレスで心臓が震えてる気がする。  疲れたなあ

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